日誌

【校長ブログ】人の心に残る仕事~ある先生と司馬遼太郎『無名の人』~

 昨日9日は、昨年亡くなられたチーム春高の一員であった春日部高等学校ラグビー部顧問の先生の月命日でした。先生は、鹿児島県立鶴丸高等学校時代にラグビー部で活躍され、九州選抜メンバーにも選ばれたラガーマンでした。今月、春日部高等学校で苦楽を共にされた同僚が、先生の出身校である鹿児島県立鶴丸高等学校を訪問し、遺影と一緒に鶴丸高等学校ラグビー部現役生徒と写真を撮らせていただきました。先生の御魂も母校に帰ることができたと思います。前田光久校長先生、小島健志教頭先生をはじめ諸先生方に感謝申し上げます。報告を聞いて、私は、ある幕末の志士の生涯を思いました。 

 幕末に所郁太郎(1838~1865)という人物がいました。ご存じの方はほとんどいないと思います。私がこの人物を知ったのは、中学生の時です。国語の教科書に登場していたのを覚えています。話の内容だけ記憶の片隅にあり、彼の名前は忘れてしまいましたが、大学生の時にふと思い出し、調べてみました。その時にわかったのは、国語の教科書短編小説は、歴史小説家の司馬遼太郎(1923~1996)が教科書に書き下ろしたもので、題名は『無名の人』でした。主人公の所郁太郎は美濃国赤坂(岐阜県大垣市)出身の幕末の志士ですが、日本史の教科書には全く登場しませんが、この人は歴史の舞台に一度だけ、それもほんの一瞬だけ登場します。

 時は幕末、場所は長州山口(現在の山口県山口市)の郊外です。当時、長州藩は討幕派の高杉晋作(1839~1867)などと保守派が激しく対立していました。高杉晋作のグループに井上聞多(後の井上馨:1836~1915)という人物がいました。元治元(1864)年9月25日の夜、山口での会議からの帰路、数人の男に襲われ、さんざんに切られ、瀕死の重傷を負いました。家に担ぎ込まれましたが、医者は助からないと言いました。聞多は、しきりと介錯をしてくれという仕草をしたそうです。この騒ぎの中、偶然、この家に入ってきた人物が所郁太郎でした。かれは、4時間かけて畳針で五十幾針を縫い、ようやく治療を終えました。井上聞多は奇跡的に助かり、再び歴史の表舞台に出て、明治維新後は井上馨として、外務卿として条約改正の取組や農商務大臣、内務大臣などを歴任します。一方、命を助けた所郁太郎は翌年(1865)にチフスで異郷の長州で亡くなります。

 司馬遼太郎は、井上聞多の遭難事件のことを調べて以来、所郁太郎のことについて心の隅にわだかまり続けていたそうです。ある時、山口県の明治初年の記録を調べてみると「美濃 所某」とあり、「言葉遣いは穏やかであり、第一流の人物という印象があった」と短いながら書かれていたそうです。また、幕末に蘭学の医師として有名な緒方洪庵(1810~1863)がつくった適塾の入門帳611名の中に彼の筆跡が残っていました。「万延元年八月十五日入門 濃州赤坂駅 所郁太郎」と書かれていました。万延元年とは1860年です。司馬遼太郎は、所郁太郎自身が書いたらしい筆跡と出会い、「君はこんなところにもいたのか」と、息を忘れるほどの感動を覚えたそうです。その後、『美濃浪人』(新潮文庫『人斬り以蔵』に所収)という短編小説に所郁太郎の生涯を初めて記しています。彼の師の緒方洪庵は医師の道を説くことの厳しかった人で「医師というのは、人を救うために人の世で生きているもので、自分のために生きているのではない」と言っています。所郁太郎には一枚だけ写真が残っています。旅の武士姿で笠を持っています。遠くを見据える目には強い意志を感じます。

 所郁太郎の生涯はわずか27歳と短かったですが、この世に生を受け、その時に、自分ができることを精一杯やり遂げたと思います。チーム春高のメンバーだった先生は、多くの生徒や同僚に慕われていました。人の心に残る仕事。教師の仕事は、緒方洪庵の思いに通じるものがあると思いました。